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DATE/ 2019.02.13

美術鑑賞の手引き~専門家に学ぶアートの味わい方~

 2016年、日本初の春画展が東京の永青文庫で開催されて話題になりました。熱心な美術ファンでなくともニュースを聞き関心を持って足を運んだ人も多いのではないでしょうか。美術史家・宮下規久朗さんの近著『美術の力 表現の原点を辿る』は、こうした近年話題を呼んだ展覧会作品や作家も多く取り上げつつ、美術・芸術・表現の本質を見つめた、現代の大人のための美術案内書です。知識も経験も豊富な宮下さんの肩越しに、美術の見方、味わい方を案内します。

絶望のなかでも心動かされる美術がある

 宮下さんは4年ほど前に娘さんを亡くされています。それ以降「神や美術を含む、この世に対する情熱の大半を失ってしまった」と言います。

「いったい、美術にどれほどの力があるのだろうか。心に余裕のある平和な者には美しく有意義なものであっても、この世に絶望した、終わった者にも何か作用することがあるのだろうか」

 痛切な疑念から逃れられない宮下さんは、「仕事だと割り切って惰性で細々と美術史という学問に携わっているにすぎない」と述べつつ、しかしそれでも「宗教や美術の力を信じたいという気持ちが絶えることはない」ということで、作品の良し悪しはかえって敏感に感じるようになった気がするとも言います。そして「その虚無的で荒廃した心境で、かろうじて興味を引いた美術について綴ったもの」が本書の35篇の記事です。それだけにとても読み応えのある内容となっています。

イタリア美術の力

 まずは宮下さんの専門分野であるイタリア美術です。古代ローマの都市ポンペイの壁画。画家の王子・ティツィアーノを筆頭に花開いたベネチア美術の黄金時代。マリア、ヴィーナス、イヴ、マグダラのマリアといったフィレンツェ美術に見られる美女たち。また、事物を組み合わせて人の顔にした独特の絵で有名な画家アルチンボルドについても、新たな見方を示しています。アルチンボルドはよく異端の画家と言われますが、宮下さんは彼がレオナルド・ダ・ヴィンチ以来の写実の伝統をもつミラノで受けた影響や、カラヴァッジョの写実技法との関連性に注目。実は彼は16世紀イタリアの自然主義を代表する巨匠であり、いわばレオナルド・ダ・ヴィンチとカラヴァッジョをつなぐ存在であったのだとあきらかにします。

 他にも、西洋美術史上最大の天才カラヴァッジョ、イタリアのレンブラントこと巨匠グエルチーノ、20世紀イタリアの静物画家ジョルジョ・モランディなど、古今の画家の魅力や読み解きが豊富なカラー図版とともに語られて読みあきることがありません。

知られざる近代日本の美術

 日本美術については、最後の浮世絵師・月岡芳年、欧米で最も有名な日本の画家・河鍋暁斎といった近年再評価されて脚光を浴びる画家を取り上げる他、四国の金刀比羅宮の美術や近代に始まった公募展などにも目を向け、日本の近代美術を読み直していきます。宮下さんは、西洋美術が基本的に公共性を帯びていたのに対して、日本美術は仏像や絵馬を除き私的な性格が強かったことを指摘します。西洋の彫刻の多くは神殿や広場に設置されましたし、中世以降、西洋絵画の大半が飾られた教会は万人に開かれた公共のギャラリーとしての役割を果たしてきました。西洋で美術館という制度が成立して広く普及したのは、こうした歴史性があってのことなのです。一方、日本美術は、絵巻も屏風も掛け軸も扇も、通常は巻いたり畳んだりしてあり、基本的には内輪の人しか見ることができません。浮世絵版画も私的な鑑賞を目的としていました。

 日本で絵画が公共性を持つのは太平洋戦争の時代で、国家から画家たちに戦争記録画を描く機会が与えられたときです。それまで主に私的な営みであった美術が国家に奉仕するということになり、画家たちは発奮しました。それらの作品は全国で巡回展示され、多くの人々に感銘を与えました。しかし敗戦後は一転、それらが軍部に与した戦争協力であったと断罪され、公開が制限されてしまいました。

 そんな戦争記録画を残した画家の一人に藤田嗣治がいます。乳白色の肌で知られる藤田はフランスで名声を得て、帰国後、戦争画の旗手として活躍します。しかし戦後はその責任を問われて再び渡仏、フランスに帰化し、レオナール・フジタとして生涯を終えます。近年になって再評価の機運が高まり、東京国立近代美術館では藤田嗣治の戦争記録画の全14点を含む全作品が展示されたことも記憶に新しいのではないでしょうか。

あらゆる芸術の源は宗教である

 本著最後の2章は「信仰と美術」「美術の原点」です。絵画とは何か。一枚の絵を見るということはどういうことなのか。そして芸術とは。芸術や表現の本質を切実に見つめます。「人類のあらゆる芸術の源は宗教である」。そう言い切る宮下さんは、ポップアートの巨匠アンディ・ウォーホルも例外でなく、その芸術の根底には深いキリスト教信仰があったと興味深い指摘をしています。

 ウォーホルは、キャンベルのスープ缶やマリリン・モンローなどを模写した作品で有名なアメリカのアーティストです。複製可能なマルチプル性はコピー性に特徴があり、作品制作もファクトリー(工場)と呼ばれる大規模工房で助手たちにまかされていました。こうした作品のあり方は、「ウォーホルが生涯にわたって見つめてきたイコンにほかならなかった」というのです。

 イコンとは、英語ではicon(アイコン)で、いわゆる図像のこと。イコンは原型の聖性を失わぬよう忠実にコピーされなければならず、書き手の主観や個性を介入させることはタブーです。「ウォーホルが理想としたのは、誰が作ったかわからないが、神を見る窓として機能している、こうしたイコンだったと思われるのだ」。そう考えると、ウォーホルの美術もまた宗教的であり、「現代ならではの宗教芸術を生み出した」と見ることができるのです。

辛いときこそ芸術に触れるチャンス

 先入観を持たず真っ白な感性で作品に出会う楽しさもあるかもしれませんが、美術史や美術家、また文化や宗教や時代性といった背景を知って初めて体感できる味わいは、はかりしれないものです。

 さまざまな悲しみや辛さや苦しさに出会ってなお生きていくことを肯定する。そうした人類普遍の哀しみや祈りが結晶したものが芸術であるならば、辛いとき、心に余裕のないときこそ、芸術に触れるチャンスといえるのかもしれません。今度の休日、本著を片手に美術館や展覧会に出かけてみてはどうでしょう。

<参考文献>
・『美術の力 表現の原点を辿る』(宮下規久朗、光文社新書)
https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334043315

<関連サイト>
神戸大学美術史研究室
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/art-history/index.html
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