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DATE/ 2024.01.15

『臨床のフリコラージュ』でめぐる「心の学問」の現在地

 私たちの日常生活において、心の健康は身体の健康と同じくらい重要です。メンタルヘルスという言葉が一般的になった現在、心の支援の重要性はますます注目されています。心は複雑な存在で、目にも見えないため、どのように扱い、理解すべきかについて、これまでさまざまな理論が提唱されてきました。では、「心の学問」の現在地はどうなっているのでしょうか。

 今回ご紹介するのは、2人の臨床家による対談本『臨床のフリコラージュ 心の支援の現在地』(斎藤環・東畑開人著、青土社)です。幅広い知識を持つ2人の対談は、「心の臨床はどうあるべきか」という通奏低音を響かせながら、縦横無尽に展開します。心の問題を取り巻く社会的側面や、文化的な影響まで、広く考察されています。

「オタク」と「ガチオタク」の「パーフェクトな対談」

 著者のお二人は、ともに臨床心理の専門家であり、社会に向けて多くの文章を書いてきた著作家でもあります。斎藤環氏は1961年岩手県生まれの精神科医で、現在筑波大学の教授でもあります。思春期・青年期の精神病理を専門としながら、一般向けに心の健康と社会問題について幅広く論じています。東畑開人氏は1983年生まれの臨床心理士で、十文字学園女子大学の准教授を務めた後、現在は白金高輪カウンセリングルームを主宰しています。理論と実践を組み合わせた活動により、『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)や『ふつうの相談』(金剛出版)といった一般向けの著書も数多く手掛けています。

 東畑氏は「まえがき」でこんなことを書いています。――自分は臨床心理学オタクで心の臨床マニアだが、対談相手の斎藤環さんは「僕なんかよりもずっと年季が入り、比べものにならないくらい気合が入ったガチオタク」だった。「人生で初めて、完璧に話が合う人と出会った」と言えるくらい「パーフェクトな対談」だった――。4章にわたる2人の対話記録を読むと、お互いとても充実した対談であったことが伝わってきます。このように思える相手との会話は楽しいもので、心にも優しいですよね。

本書に収められた四つの対談

 本書の内容は実に多岐にわたります。第1章「臨床と学問」では、カウンセリングの現場における新型コロナウイルスの影響から始まり、コロナ時代の共同性や親密性、日本におけるカウンセリングの歴史といった話のなかで「鬼滅の刃」といった単語が飛び出てきたりします。心の臨床を軸としながらも多彩に繰り広げられる対談は実に魅力的です。

 第2章では、2022年に亡くなった精神科医の中井久夫氏の仕事について語るところから始まり、臨床とは何かといった本質的なテーマにまで話題が及びます。

 第3章では、斎藤氏がこれまでに行ってきた映画批評の集大成である著書『映画のまなざし転移』(青土社)から話が始まり、「物語ること」と臨床の関係について展開していきます。村上春樹氏の小説をはじめ、さまざまな小説や映画が登場し、読んでいて楽しい章です。特に、ヤングケアラーをテーマにした川上未映子氏の小説『黄色い家』を、「ケアの倫理」と「正義の倫理」の観点から読み解く部分は興味深いものがあります。

 最後の章のタイトルは「社会と臨床」です。東畑氏の著書『ふつうの相談』の内容に即しながら、発達障害や依存症、引きこもりの問題などについて論じられていきます。最終的には心の学問の現在地を考察する内容へと進んでいき、専門家と素人の関係や、原理主義に抵抗する方法といったテーマになり、これまでの本書の議論全体が丁寧にまとめられていきます。

臨床の「フリコラージュ」に込められた意味

 ところで、本書のタイトルには聞きなじみのない言葉があります。「フリコラージュ」とは何でしょうか。人類学に詳しい方なら、「ブリコラージュ(bricolage)」という言葉を連想するかもしれません。人類学者レヴィ=ストロースが『野生の思考』という本の中で提唱した概念で、ありあわせのものを用いて、応急手当的に目の前の問題に対処することを表したものです。

 実はタイトルの「フリコラージュ」とは、このブリコラージュと「振り子」を掛け合わせた言葉なのです。「あとがき」によると、長い対談の収録を終えて不思議なテンションになっていた著者たちが爆笑しながら決めたタイトルらしいのですが、著者のお二人のスタンスを的確に表した実に意味深いタイトルになっています。

 斎藤氏は精神医学における「振り子」の問題について10年ほど考えてきたと「あとがき」で書いています。斎藤氏によれば、近代以降の精神医学は「普遍」と「個人」とのあいだで揺れ動いてきたのだといいます。具体的には、催眠療法→精神分析→CBT(認知行動療法)→マインドフルネス、といったように。

 さらに、斎藤氏は、哲学者フーコーや中井久夫の議論を引きつつ、人間は抽象的な自己と経験的な自己を併せ持つ二重体であると指摘しています。そして、人間はこのような二重性を持つがゆえに、両者の間を揺れ動く振り子運動が続いてきたのだと分析しています。斎藤氏は「振り子」という観点から、これまでの「心の臨床」の歩みに一貫した説明を与えようとしているのです。

 東畑氏によれば、心の臨床は原理主義に陥りやすい傾向があるのだそうです。心は形のないものだからこそ、心についての理論はあらゆる現象を説明できてしまうパワーがある。そのため、強力な理論が登場するとみな熱狂し、それでなんでも解釈できると思ってしまう。

 しかし、そのようなトレンドは「振り子」が揺れるようなもので、必ず極から極へと動く揺り戻しがあるのだといいます。ある理論が流行しても、それでは見えない現実があらわになってくる。それに対応する理論が登場すると、今度は別の問題が生じる……。その繰り返しということです。

 著者のお二人に共通するのは、原理主義を拒否し、バランスを取る穏健派であり続けようとすることです。なんでも説明できる万能な理論に頼ることなく、ブリコラージュ的に目の前の現実に向き合おうとすること。「臨床」の現場経験を重ねてきたお二人の言葉には説得力があります。本当に大事なことは、実はごく当たり前なことの積み重ねなのかもしれません。

「心の支援」に関わる専門家だけでなく、心について関心がある方なら誰にでもおすすめできる対談集です。ぜひ一度書店で手にとってみてください。

<参考文献>
『臨床のフリコラージュ 心の支援の現在地』(斎藤環・東畑開人著、青土社)
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3867

<参考サイト>
斎藤環氏のツイッター(現X)
https://x.com/pentaxxx?s=20

東畑開人氏のツイッター(現X)
https://x.com/ktowhata?s=20
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