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DATE/ 2024.04.26

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』が問う日本の読書

 最近読んだ本はどのような本だったでしょう。ずいぶん前だから思い出せないという人もいるのではないでしょうか。労働時間が長い日本では、「労働」と「読書」の両立はなかなか難しいとも感じます。一方で、気がついたらインターネットやSNSを見るのに時間を費やしていた、という経験のある人もいるのではないでしょうか。

 ではなぜ、インターネットには時間を割くことができて、読書に時間を割くことは難しいのでしょうか。この点について、今回ご紹介する『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆著、集英社新書)では、大正から昭和を経て現代までの教養や読書がどのようなものであったのか、といったことをたどりながら考察が進められます。

 著者の三宅香帆氏は1994年高知県生まれ、京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了したのちIT企業に就職します。その数年後、本をじっくり読むために退職し、現在は文芸評論家として活躍しています。三宅氏は本書で「どういう働き方であれば、人間らしく、労働と文化を両立できるのか?」という問いからスタートします。

本を読むことはいつから「教養」となったのか

 日本で「サラリーマン」が誕生したのは大正時代ですが、その後、昭和に入る頃「円本ブーム」が起きます。円本とは1冊1円の本で、現在の貨幣価値で考えると2000円程度になります。これは当時の通常の本が現代の貨幣価値で1冊1万円程度するものだったことからすると、かなり安かったことがわかります。さらに現代でのサブスクのように、毎月おすすめの名作が送られてくる形での全集セット売りでした。

 当時、高等教育を受けたエリート層=新中間層が、労働者階級との差異化のために「教養としての読書」を重視した流れがありました。ここに向けて円本全集が売り出されたことで、実際に読んだかどうかは別として教養としての本が一気に一般に広がったようです。

 つまり読書することは、エリート層(新中間層)が仕事とは直接関係のない「教養」を持つことを求めたことによる行為だったことがわかります。またこののち、戦後1950年代以降からは全集ブームや文庫ブームが起こり、1960年代になると今度は、『英語に強くなる本』といった仕事でも「役に立つ」新書が出てきます。

「教養」から「コミュニケーションのためのもの」に

 その後、1970年代に入ると、サラリーマンが司馬遼太郎の描く立身出世物語を文庫本で読むようになり、1980年頃には女性にも教養が広く開かれていきます。ここまでの流れを踏まえて三宅氏は、「読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階段を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業」だったのかもしれないといいます。

 一方で、1980年代ではより実用的で明日使える知識を伝える雑誌「BIG tomorrow」がサラリーマンに読まれるようになりますが、これは「学歴ではなく、コミュニケーション能力を手にしていないコンプレックスのほうが強くなったからだ」と三宅氏は分析します。さらに、この頃には『ノルウェイの森』などの「自分の物語」がヒットします。ここにも「他人とうまく繋がることができないコミュニケーションの問題」があったと推測します。

90年代前半は「内面」へ、後半は「行動」へ

 1990年代に入ると、さらに「内面」に向かい、ややスピリチュアルな方向から「自己」を探究していきます。しかし、1990年代後半になると、突如「行動」の時代に移行します。出版界ではポジティブ思考で「行動」で自分を変える自己啓発書『脳内革命』が大ヒットして「脳」ブームが起きます。ただし、この多くは脳科学書というよりは「思考法」やビジネス書といった、あくまで「行動」を促すことで成功をもたらすというものでした。

 この背景に三宅氏は、バブル崩壊により一億総中流時代が終わったことを挙げます。この頃、仕事を頑張ったところで日本は成長しないし社会は変わらないという感覚が強くなり、経済の波によって社会は動き、この波に乗れたかどうかで成功が決まると考え始めます。そして、人々は「コントロールできない現実社会」と「コントロールできる自分の行動」に分けて考えるようになります。こうして自分の行動をコントロールするための自己啓発書が求められるようになります。

アンコントローラブルなもの=ノイズ

 このような流れで「教養」としての読書だったものは現在、自分をコントロールする方法を得る自己啓発書を読む行為や、インターネットで情報を得ることに取って代わっています。ここで共通する点が、「ノイズが除去されている」点です。自己啓発書のロジックはアンコントローラブルなものを捨て置き、コントローラブルなものに注力することで、自分の人生を変革する、ということです。

 コントローラブルなのは自分の私的空間や行動です。たとえば「片づけ本」や「断捨離」といった本が売れ、アンコントローラブルな他人や社会について触れる文芸書や人文書といったものは、ノイズを提示するものとしてあまり注目されない流れにあります。つまり、その昔「教養」とされていたような本は、現在では働く上での「ノイズ」として排除されているのかもしれません。

ノイズを受け入れる必要性

 この状況に対して、三宅氏はノイズ性を完全に除去した情報だけで生きることは無理なのではないか、といいます。他者の文脈をシャットアウトせず、仕事のノイズになるような知識をあえて受け入れることが、自分に余裕を持つことであり、働きながら本を読む一歩になるのではないだろうか、と言います。

 このために、まず「全身全霊を止めること」をやめるべきだと主張します。「全身全霊」とは「自分を忘れて、自我を消失させて、没頭すること」です。仕事だけに没頭することは実は楽なことであり、またそうなると、人はついつい働き過ぎてしまいます。しかし、この「働きすぎること」は実際には「自分で自分を搾取してしまうこと」である点を三宅氏は指摘しています。

 三宅氏は最後に社会学者・上野千鶴子の言葉を借りて、「半身で生きる」ことを提案します。難しいことだけれども、これができれば、自分や他人を忘れずに生きる社会になるのではないか、と。

 ということで、「教養と読書」の歴史をたどりながら、現代社会の違和感を丁寧に噛み砕いて、わかりやすく解説していくのが本書です。ぜひ手に取って、どうか時間を見つけて読んでみてください。自分の内側の奥の方で燻っている現代社会への違和感が、少しずつ正体を現してくる体験となるはずです。

<参考文献>
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』 (三宅香帆著、集英社新書)
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721312-6

<参考サイト>
三宅香帆氏のX(旧Twitter)
https://twitter.com/m3_myk

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