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DATE/ 2024.07.16

『闇の中国語入門』が伝える現代中国と若者のリアル

 一般的な語学入門書の登場人物は、前向きかつ社交的で挨拶を忘れず、感謝に満ち溢れています。もちろん入門書は、友好的で柔らかい内容のほうがハードルが低いくていいのでしょう。ただし、どこかよそよそしい、作られた世界という感じが否めません。今回紹介する書籍『闇の中国語入門』(楊駿驍著、ちくま新書)はこの点、真逆です。あえて現実的な負の側面を伝える中国語にフォーカスした、中国語入門書です。

 著者の楊駿驍氏は、1990年に中国の吉林省吉林市で生まれます。2003年に父親の仕事で来日し、定住したそうです。その後は周囲の助けを借りながら日本語を学び、心理学、哲学、文学の本を貪るように読み、早稲大学文学部、同大学大学院文学研究科博士後期課程を修了します。専門は現代中国文学とサブカルチャー。他の著書に『日中韓のゲーム文化論』(新曜社)があります。現在は二松学舎大学文学部専任講師のかたわら、文藝春秋などにも寄稿しています。

100冊以上の入門書に描かれた「ユートピア」

 本書を書くきっかけとなったのは、大学で中国語を教えることになった時、文化論が専門で語学教育経験のない楊氏を心配した恩師が、100冊以上の語学参考書を段ボール3箱で送ってきたことでした。楊氏は重くて室内に運び込めないこれらの参考書を、玄関先で4時間かけて読んだそうです。

 ほとんどの教科書の会話では、ポジティブな感情が織り込まれ、みな意識が高く、希望を持っていてやる気や好奇心に満ちている。また、同級生は仲が良く、熱心に助けてくれて、家族は一家団欒を楽しむ。さらに、会社の上司はやさしく、知らない人も道であったら助けてくれて自分に関心を寄せてくれる。これに対して、楊氏はどこにもない「ユートピア」だと言います。

異質なもの同士をつなぐのは「ネガティブへの共感」である

 楊氏の知っている中国ははるかに複雑です。笑っていると思ったら次の瞬間に泣き崩れたり、のほほんと生きているように見えて世界全体に強い敵意を持っていたり、やる気のある人だと思っていたら鬱になったり、「闇」を抱えている人は(中国に限らず)結構いて、この状態のほうがはるかにリアルではないかと。

 楊氏は、異質なもの同士をつなげ、理解し合うきっかけは、ポジティブなものではなく、悩み、恨み、悲しみ、不確実さ、災厄、恐怖など、むしろ「ネガティブなものに対する共感」だと考えます。本書では「悲しみ」「疎外感とさびしさ」「もがく」といったようなネガティブなジャンルごとに言葉がピックアップされます。それから、例文とともに中国の現状と合わせた詳しい解説がなされます。実際にいくつかピックアップして見てみましょう。

 なお、ここで紹介する言葉は実際には中国語の簡体字なので、以下に示す日本語フォントで表す日本語の漢字とは正確な表記が異なります。ただし、今回は日本語話者が読んだときに比較的ニュアンスを掴みやすいように、日本語と同じような漢字を使う言葉に絞って、日本語のフォント表記で記しています。この点、ご留意ください。

心酸:「悲しい、悲しみがこみ上げる」

「心酸」は一言で言えば「悲しい」という意味ですが、「悲しみがこみ上げる」といったニュアンスがあります。特に「心酸」という状態を引き起こす刺激となる出来事について語られるのは、さまざまな要因が複雑に絡み合い、自分の力ではどうしようもない悲しい出来事である場合です。

 中国のYahoo!知恵袋のようなサイトでは「あなたに悲しみ(心酸)を感じさせるような出来事にどういったものがありますか?」というスレッドがあります。そこでは大学に行かせるために体に鞭を打つように畑を耕しつづける両親を見て「心酸」を覚えたエピソードや、結婚したばかりの若者が妻に事故で死なれ、多額の借金を背負いながら出稼ぎに行く話を聞いて「心酸」を覚えたエピソードなどが挙げられています。いずれも「自分の力ではどうすることもできない出来事」であったり、「報われなさ」のような、ある種の悲劇性が伴うところにその特徴があります。

迷茫:「茫漠としている、当惑・困惑する」

「迷茫」の「茫漠としている」というイメージは、とても広い場所で、目印となる場所も目的地の候補になる場所も見つからない状態です。さらにこのときの自分に意識を向ければ「私はいったい、どこに向かえばいいのだろうか」という困惑した状態でもあります。現在ではこういった気持ちの形容として使われることが多いようです。

 また、「漠然としている」状態から派生して「精神の焦点があっていない」「はっきりとした像を結ばない」といったことや、「未来や前途に対するヴィジョンが浮かばない」といったことも表現します。こういった状況を表すことから「どうすればいいのか分からない」、「途方にくれる」といった感覚を表す文脈に入ることが多い言葉でもあります。

佛系「仏系、無為無欲系」

「佛系」は、本書の最後にある第四節「無為と抵抗」のカテゴリの中に挙げられている言葉です。「佛」は「仏教」のことですが宗教的語彙ではなく、世俗的な欲望から解放され無欲になった状態のイメージです。厳しい社会の抑圧からの解放というようなニュアンスがあります。

 もともと日本の女性ファッション誌「non-no」2014年3月号で紹介された草食系男子の進化系「仏男子」が元であるとも言われています。2018年から中国のネット上で頻繁に登場し、ついに一般的な呼称として広まりました。現在では性別も男性に限定されず、恋愛の文脈から生活態度や世界観全般に拡大しています。いわば、世界と向き合う態度そのものを形容する言葉とっています。

 このスタンスは、ゲームの場合「勝ってもいいし、負けてもいい」、入試の場合「受かってもいいし、受からなくてもいい」ということになります。ただし「無気力」というよりは「差異の抹消」をもたらしていると楊氏は言います。これは、主流の社会で戦っている人たちにとっては「あなたたちがすべてをかけて必死に手に入れた『差異』が本質的にどうでもいいものである」と言われているようなのものだそうです。こうして、主流派からの強い反発と批判を巻き起こしています。

現代の言葉の先に中国の若者の葛藤が見える

 本書の終わりで楊氏は2010年代の後半から現実社会の状況が悪化するにつれて、拒絶心理の表現はよりラディカルになったと言います。この書籍は、単なる中国語の入門書ではありません。筆者が「自由」を求めてもがく若者の姿を見つめ、現代の中国を表す上で選び抜かれた言葉が並んでいます。文化や社会は言葉によって表現され、言葉によって認識されます。語学を学ぶとは、単にその言葉の意味を知ることではなく、その土地の人間の営みを知ることです。

 つまり、この書籍で解説されている言葉を知ることによって、現代の中国で葛藤しながら生きる若者の姿が見えてきます。こうして、同時代を他文化のもとで生きる相手を知ることで、初めて人間同士の対話が成り立つのではないでしょうか。ぜひ本書を開いてみてください。きっと「リアルな」「生の」中国が見えてくるはずです。

<参考文献>
『闇の中国語入門』(楊駿驍著、ちくま新書)
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076236/

<参考サイト>
楊 駿驍氏のX(旧Twitter)
https://x.com/yaoshunshyo

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